日蓮さま 大聖人の生涯
『求法の旅』
鎌倉で勉学に励まれた日蓮さまは、仁治三年(1243年)東海道をくだり、比叡山にむかいました。
比叡山は、伝教大師がひらかれた仏教研究の中心ともいうべきところで多くの学僧が集まっていました。
日蓮さまはこの比叡山で十二年の歳月、ねむりもたって仏道修行につとめられ、
そこを拠点に各地の寺々を訪ね真の仏教を求め、さらに研鑽を積まれました。
『真実の教え』
ひたむきに学問修行された日蓮さまは、ひとつの確信をもつようになりました。
それは、法華経こそがお釈迦さまの説かれた本当の教えであり、
まよえる人々を救う道であるとの確信でした。
法華経こそが日蓮さまの求めていた真実の教えだったのです。
そして日蓮さまは、法華経の教えの通りに生きることこそ、なやめる人々を救うことであり、
自分に与えられた使命であると考えました。
日蓮さまは、希望に燃えて比叡の山をあとにし、故郷へ帰りました。
新たなる道を歩むために・・・
『立教開示』
建長五年(1253年)四月二十八日、ついにそのときはきました。
日蓮さまは、清澄の山頂旭ケ森に立ち、はるか大平洋から輝き昇る日輪にむかい、声高らかに
『南無妙法蓮華経・
南無妙法蓮華経・・・』と唱えられました。
まだ誰も唱えたことのないお題目が天地に轟きわたりました。
日蓮さま、御年三十二歳。
『立教開示』の宣言です。
この日午の刻(正午)、日蓮さまの説法がはじまりました。
ところが、集まった多くの人が期待した阿弥陀さまの話しではなく、
日蓮さまは、諸宗の誤を指摘して法華経こそがお釈迦さまの真実の教えであると説かれましたので、
その場は大騒ぎとなりました。
特に念仏信者の地頭東条影信の怒は激しいものがありました。
そしてこの日から日蓮さまは、経文に予言された迫害と、法難の中での伝道の日々を送ることになりました。
『辻説法』
清澄をはなれ、鎌倉にでた日蓮さまは三十三歳。
小町の辻に立って行き交う人々に法華経への帰依を呼びかけました。
そして禅宗や念仏宗を批判しましたので、罵声を浴びせ、石を投げつける人も多くいました。
しかし、獅子が吼えるが如く堂々とした日蓮さまの説法に、耳を傾ける人もあらわれ、
次第に弟子や信者が集まってきました。
『立正安国論』
やがて鎌倉を中心とする東国では日照り・洪水・飢饉・疫病などの災害が続発し、
人々は絶え間の無い苦しみにおそわれ、不安な日々が続きました。
大地震も起こり、鎌倉の町は地獄絵図のようになりました。
この悲惨なありさまを、目の当たりにした日蓮さまは『立正安国論』を著し、
北条時頼におくりました。
この書で日蓮さまは、天変地異の原因は、あやまった信仰にあると述べ、
ただちに法華経に帰依することが救いの道だと説かれました。
そうしないと内乱が起り、外国が攻めてくると予言されたのです。
<法華経とは>
お釈迦さまは御一生の間に『八万四千』と言われるほどのたくさんの教えを説かれました。
しかし、その多くの教えは、法華経を説くための準備であったのです。
法華経を説くことが釈尊の目的でありました。
しかし、教えを聞いていた人々(大衆)が幼稚でありましたので、人々の理解力を向上させるために
多くの教えを説かれたのです。
釈尊が最後に説かれ、おさとりの神髄を説法されましたが、法華経(妙法蓮華経のこと)であります。
それだからこそ、法華経は私達に語りかけているみ声ともいえます。
インドの霊鷲山で、多く弟子たちや信者たち、さとりの内容を克明に、ドラマチックに、
八巻二十八品(品とは章と同じ意味です)に亘って説明されましたのが法華経であります。
『草庵焼打』
日蓮さまが、国を憂い、人々のしあわせを願って北条時頼に提出した『立正国論』は
幕府の採用するところとはなりませんでした。
それどころか、その反響は思いもよらぬかたちであらわれました。
分応元年(1260年)八月二十七日夜、安国論が上奏されてからわずか四十日後、
日蓮さまのおられた松葉谷の草庵は、恨みをいだいた諸宗の人々の襲撃をうけたのです。
危うく難を逃れた日蓮さまは、ひそかに下総の富木氏の館に身を寄せられました。
『伊豆法難』
翌、弘長元年(1261年)春、四十歳をむかえた日蓮さまは、再び鎌倉に帰り、
辻説法を再開しました。
日蓮さまは焼死したものと思いこんでいた草庵焼打ちの首謀者たちは驚き慌て、
はかりごとをめぐらせました。
五月十二日朝、理不尽にも日蓮さまは捕らえられ、そのまま伊豆の伊東へ流罪となったのです。
由比ケ浜 からの船出の時、弟子日朗さまが随行を願い出ましたが許されませんでした。
日蓮さまは夕陽が傾く中、伊東に程近い篠海浦のとある岩の上に置き去りにされました。
潮が満ちてくれば海に没する俎岩です。
死を待つばかりの日蓮さまは静かにお題目を唱えておられましたが、
そこえ不思議にも通りかかった漁夫船守弥三郎の船に助けられました。
この地で日蓮さまは一年七ヶ月を過ごされ、その間に立像釈牟尼仏(随身仏)を感得されたのです。
『小松原法難』
許されて鎌倉へ戻った日蓮さまは文永元年(1264年)秋、久しぶりに故郷小湊に帰られました。
父の墓もお参りし、母や恩師道善房を訪ねられたのです。
しかし、かねてから日蓮さまを恨んでいた地頭東条影信は、日蓮さまの帰国を知り、
日蓮さまを亡き者にせんと機をうかがっていました。
そして十一月十一日夕刻、小松原で日蓮さまの一行を数百人で待ち伏せし襲撃におよびました。
弟子の鏡忍房は討ち死にし、九死に一生を得た日蓮さまも額に傷を蒙りました。
『国書到来』
文永五年(1268年)一月、蒙古から国書が届きました。
表向きは親しく国交を結びましょうという書でしたが、
いうことを聞かなければ征服してしまうという威嚇を込めたものでしたので
日本中が騒然となりました。
日蓮さまは、立正国論でのべた予言が的中したことを感じ、
今こそ正しい法である法華経を弘めなければならないと痛感し、
幕府に警告を発せられました。
『龍口法難』
文永八年(1271年)九月十二日夕刻、平頼綱は数百人を従えて草庵を襲い、
人心を惑乱させるものとして、日蓮さまを捕らえました。
これは日蓮さまの存在をこころよく思わない人々がさまざまな陰謀をもって
幕府を動かしたからでした。
そして佐渡流罪の名目で、日蓮さまの首を切ろうとしたのです。
しかし深夜龍口の刑場でまさに処刑が行われようとしたとき、
不思議な天変が起り処刑は中止となり、当初いわれた佐渡への流罪となりました。
<四大法難とは>
日蓮大聖人は一生のうち生命にかかわる法難を四回、小さな法難は無数に受けられました。
四大法難といいますのは、伊豆伊東の俎岩に置き去りされた伊豆法難。
いまこの地に霊跡院連着寺がります。
四十三歳のときに房州小松原で地頭東条影信の一軍に襲撃された小松原法難。
五十歳のとき片瀬の龍口刑場で処刑されようとした事件。
このとき鎌倉一帯には不思議な現象が起り、処刑は中止されたことは有名です。
これを龍口法難といいます。
同じその年、佐渡遠流の難にあい、配所の佐渡における生活は、
寒さと飢えに悩まされる過酷なものでした。これを佐渡法難といいます。
大聖人さまが法華経を弘めることは命がけでした。
しかし末法の世にこの法華経を弘める人には必ず大難や小難がくると書かれた法華経の
経文の通りであると感激して耐えられ、法華経の行者としての自覚を深められたのです。
『越後寺泊』
佐渡へ流罪となられた日蓮さまは文永八年(1271年)十月二十二日越後の国、寺泊へ着きました。
ところが、海が荒れたため、佐渡への舟が出ず、しばらく天候の回復を待つことになりました。
そうしたある日、凛々しい童子が日蓮さまを訪ねてきました。弟子になりたいというのです。
しかし流人の身の日蓮さまは、童子の願いを容れられないことを諭し『摩訶一丸』という名を
授けられました。この八歳の童子が、後に総本山本成寺を開かれた日印聖人その人です。
『塚原三昧堂』
佐渡へ上陸した日蓮さまは、塚原の配所へ入られました。塚原は死者を葬るところです。
そこにある一間四面の荒屋に、伊豆流罪のとき感得した立像釈尊をおまつりし、
飢えと寒さに耐えておられました。しかし日蓮さまは、心細い環境の中でも遠く離れた
弟子や信徒の人々の身の上に思いをはせ、どうすれば世の人々を導き、
救うことができるのか心を痛めておられたのです。
まさに死地にある日蓮さまを弥陀の怨敵としてねらう者も多くいました。
しかし日蓮さまの偉大さと法華経の正しさに出逢い、念仏をすてて帰依する人もあらわれました。
とくに阿仏房夫妻は、日蓮さまに生涯を捧げる強烈な信奉者となり、
誠心誠意日蓮さまに尽くされました。
文永九年(1272年)日蓮さまは開目抄を著されました。
この御書は、自ら法華経の行者であることを宣言された形見ともいうべき大切な書物です。
『一ノ谷配所』
文永九年 (1272年)の夏ごろ、日蓮さまは一ノ谷に移されました。
当地の入道の館に預けられたのですが、塚原の荒れた三昧堂とは違うもてなしをうけました。
また、このころには弟子や信者も鎌倉から佐渡えお訪れ、日蓮さまに給仕するようになりました。
そうした多くの人々の好意に、日蓮さまは深く感謝の気持ちをあらわしております。
この 一ノ谷で日蓮さまは、赦免まで約二年間を過されるのです。
日蓮さまは、 この 一ノ谷で、観心本尊抄をお書きになりました。
この御書は『日蓮当身の大事』と述べられたように、末法の私たちを救済するご本尊とお題目を
あきらかにされた最も大切な書物で、文永十年(1273年)四月二十五日に完成しました。
そして日蓮さまは、この二か月半後に本尊抄の理念によって大曼陀羅御本尊を始めて図顕されました。
五十二歳のときです。
『流罪放免』
明くる文永十一年(1274年)二月十四日、幕府は日蓮さまの流罪赦免を発令されました。
この知らせが、日朗聖人によって佐渡の日蓮さまのもとに届けられたのは、三月八日のことでした。
あしかけ四年に及んだ佐渡での流罪生活から解放されたのです。
日蓮さまは、三月十三日に佐渡をあとにし、二十六日に鎌倉へもどられました。
<佐渡の日蓮大聖人>
佐渡は 、新潟市の北西海上にある日本海最大の島で、面積は八百五十七平方キロメートル。
古く八世紀頃からの流刑地で多くの人々が流された島です。
日蓮大聖人はこの島で足掛け四年過されました。
今でこそ観光の島として気軽に訪れることができますが鎌倉時代では、
生きて帰ることができないような絶海の孤島でした。
寒さや飢えと戦うきびしい日々、多くの念仏信者たちの敵意にみちた目に囲まれた生活の中で、
日蓮大聖人は自分自身の内面を深くみつめられるとともに、
法華経の行者としての確信を深めていかれたのです。
いわば大聖人さまの信仰確立がこの島でなされたのです。
『鎌倉から身延へ』
文永十一年(1274年)三月二十六日、赦されて鎌倉に帰った日蓮さまは
四月八日に幕府の招きをうけました。
平頼綱は以前と異なり、にこやかな顔で威儀を正して日蓮さまを迎え、
蒙古襲来の時期をたずねました。
日蓮さまは蒙古の襲来は今年中にあるとお答えになりました。
そして国家の安泰を祈るには、ひとえに法華経に依らなければならないと諌言されました。
まちがった信仰を捨てて、お釈迦さまの真実の教え『法華経』に帰依すれば、
この世は仏国土になると、日蓮さまが幕府を諌めることはこれで三度目になります。
しかし今回も受け入れられなかったため、日蓮さまは昔からの習いにしたがい、
意を決して山にこもることにされました。
五月十二日、鎌倉にとどまることわずか五十日たらずで、日蓮さまは身延へむかわれたのです。
『蒙古襲来』
鎌倉を出発した日蓮さまは、五月十七日に身延へ到着されました。
五十三歳のときです。
そして、日蓮さまが身延へ入られてから、わずか五か月後の十月、
ついに蒙古の大軍が攻め寄せてきました。
日蓮さまが『今年中には必ず』といわれた予言が的中したのです。
蒙古の襲来は、この文永十一年(1274年)と弘安四年(1281年)の二度に及びました。
『身延での日々』
日蓮さまは身延で、あしかけ九年の歳月を過されました。
草庵をむすび、きびしい自然の中で 、日夜法華経を読み、弟子・檀信徒を導き、
感謝とよろこびを胸に、国家社会をおもうとともに、自らかえりみる生活でした。
やがて、日蓮さまを慕い、教えを求めて多くの人々が身延へ集まるようになりました。
そうしたなかで日蓮さまは、大切な書物を数多く書きあらわされました。
『身延下山』
法華宗を開き、お釈迦さまの真実の教えをひろめること、じつに三十年近くになりました。
日々の論議・幾多の法難・伊豆や佐渡での流罪生活と、身延のきびしい寒さと湿気の多さに、
さすがの日蓮さまも健康をそこねていかれました。
日蓮さまは、病状を心配する弟子達や檀信徒の願いを聞き、弘安五年(1282年)九月、
療養のため身延を下り、『常陸の湯(温泉)』へおもむかれることになりました。
『入滅』
弘安五年(1282年)九月八日、日蓮さまは住みなれた身延をあとに馬上の人となり、
十八日に武蔵の国の池上宗仲の館に着きました。
しかし、めざす常陸の国は尚遠く旅の疲れも加わったなかで日蓮さまは、
自らの病状を知り、十月八日、六人の本弟子を定められました。
小康を保っておられましたが、ついに十月十三日午前八時頃、
多くの弟子・檀信徒の悲しみのうちに、日蓮さまは多難な六十一年の生涯の幕を、
静かにおろされたのです。
<報恩>
日蓮大聖人は、おん年六十一歳でご入滅なさいました。
その時、大地は震動、日昭上人が鐘をついてご遷化をつげると、
秋というのに桜の花が咲きほこったと伝えられております、
それ以来毎年各寺院では報恩の要法をいとなみ今日に至っております。
『会式』とは『法会の儀式』の意味で、法要・説法・読経の集まりであり、
敬語の『御』をつけて『御会式』と称し、仏教各宗共通の意でありました。
ところが大聖人の命日の法会儀式が特に盛大に各寺院でいとなまれ、
全国で有名になって、御会式といえば日蓮大聖人のご報恩の法要となり、
他宗の御会式はかげをひそめてしまったのです。
報恩を離れて大聖人の宗教はありません。大聖人は御書のいたるところで
報恩について説明されております。開目抄に
仏法を学せん人知恩報恩なかるべしや、
仏弟子は四恩をほうずべし
と、仏教を信ずる人は報恩を忘れてはならないと述べておられます。
この四恩とは、父母の恩・衆生の恩・国王の恩・三宝の恩をいいます。