紀元二千六百年祭と秋刀魚大漁物語(一)

 この話は六十五年ほど前の出来事で、昭和十五年秋から翌年一月の中頃まで、富戸湾に押し寄せた
秋刀魚の話をしようと思います。その頃の日本政府は、軍国主義者に覆われていた時代でした。御上
(政府) からの通達で、本年(昭和十五年) は我が日本国が誕生してから二千六百年だと、幻のよう
な計算をして、日本の全国民は紀元二千六百年祭を 「都会は都会らしく、田舎は田舎らしく、地方に
応じた祭りごとを盛大に行え。」 との通達でした。日本全国民は政府の指導に従い、国を挙げて紀元
二千六百年を祝うことになったのです。なお、この祭事には、近隣の友好国も協力させられました。
目的は世界中に、日本の国民の団結の姿を見せるための祭事です。全国民は心を合わせて、この祭事
に協力しました。私達富戸の村でも、区長さんを中心に各団体の役員さんが集まって、できるだけ盛
大に行うとの話し合いになりました。そして、御上からの指導を受けて、祝賀祭の予定表を作りまし
た。祝賀祭は桜花の四月一日から始め、毎月一日を旗行列の日と決めて、小学生から五十歳過ぎたお
年寄りまで、できるだけ多くの村人が参加するようにと。それからなお、毎月一日(大詔奉戴日) に
は、どこの家でも日の丸の旗を門に立てること。なお、祝賀祭の最終日は、十一月三日の明治節と決
めて、宿若い衆全員、仮装して山車(花車) を曳き出して、三島神社の本案りと同じ道順で宇根の竜
宮さんにお参りして、一休みしてからまた、お宮さんに曳き帰るという話に決まりました。そして、
色々な祝賀祭行事も終わり、最後を飾る十一月三日の昼過ぎに、富戸湾に秋刀魚のl大群が押し寄せ、
毎晩、毎日秋刀魚大漁に明け暮れた話を中心に、当時の国際情勢も織り交ぜながら、富戸の出来事を
話そうと思います。                                    
 我が国は数年前から始まった支那事変で、多くの兵隊と物資を失いました。元々資源の少ない我が
国では、物資を遣り繰りするという、誠に苦しい国内の状況でした。例を話すと、家庭内の古い鍋や
釜(特にアルミ類)や古釘までも探し出して、戦車や飛行機の材料に供出させられたのです。そして
「これからの戦争は、石油の保有量で勝ち負けが決まるだろう。」という時代になってきたのです。で
も、石油の乏しい我が日本は、艦隊、戦車、飛行機など、その他の機動部隊までも、活発に行動する
ことを制限されるという、厳しい状況になってきました。そして、これからの戦争を勝つには、大き
な油田の確保が急務でした。そこで日本軍部は、東南アジア方面の油田を手に入れようと謀ったので
すが、日本軍部の意図を見抜いた連合国(アメリカ、イギリス、支那、オランダ)等の国々は共同し
て、南アジアの石油が、日本に流れないための共同作戦を行いました。その作戦が有名な、ABCD
包囲網です。日本軍の関係者は慌てました。誠に頭の痛い、苦しい状況に追い込まれたのです。日本
の政府は、全国民の団結を煽り立てるための大きな催しを計画、実行しました。その祭事が紀元二千
六百年祭です。政府からの発表で、日本国が誕生してから二千六百年目だと、幻のような話を作り上
げて、帝都(東京)を中心に地方の都市は勿論、山奥の村落までにも、紀元二千六百年祭に協力させ
ました。だが、この紀元二千六百年祭の辿った道は、太平洋戦争という惨めを極めた、敗戦への道だ
つたと思われます。このように、極めて緊張状態の昭和十五年の私は、富戸若い衆組の一年生で、伊
東公民学校も一年生でした。私達富戸でも村を挙げて、二千六百年祭に協力する話が合同会議で決ま
りました。まず在郷軍人、若い衆組(警防団)、各町内会、国防婦人会、女子青年団、小学校の生徒

紀元二千六百年祭と秋刀魚大漁物語(二)

 と先生、それに一般区民も参加して、紀元二千六百年祭を盛り上げることに話し合いで決まりました。
 祝賀祭のプログラムは次のようでした。                           
                            
(一)毎月一日(大詔奉戴日)には、区民全員が小学校(今の富戸コミセン)に集合して、旗行列を
行うこと。                                  

(二)毎月一日には、どこの家でも日の丸の旗を門口に立てて、祭事を盛り上げる。       

(三)お盆休みの八月十四、十五、十六日は、若い衆組の主催で相撲大会を行う。        

(四)祝賀祭の最終を飾る日は明治節(十一月三日)と定めて、宿若組(十五歳から二十四歳)は、
      仮装して秋祭りと同じ道順で、山車(花車)を宇根の竜宮さんまで曳き出して、戦勝を祈願してから
三島神社へ曳き返す。というコースに決まりました。               

 話し合いで決まった通りに、毎月一日(大詔奉戴日)には、区民全員が日の丸の小旗を振って旗行
列を行いました。この旗行列には三ケ月ほど前に発表された、益田好生作詞、森義八郎作曲、紀元二
千六百年祭の歌「金鶉輝く日本の、栄えある光身に受けて、今こそ祝え、この朝(あした)、紀元は
二千六百年」と、日の丸の小旗を振りながら、元気に旗行列を行いました。そして、若い衆組主催の
相撲大会が、八月十三日から十六日のお盆に夕方四時から、三島神社境内西側の桜の枝へ電灯を点け
て、夜の九時頃まで行いました。村中の興業のためか、思ったより賑やかでした。残念なことは、こ
の相撲大会で三名の若者が腰や肩や足を痛めました。後で話しますが、秋刀魚漁ができなくて、大き
な稼ぎを逃した気の毒な若者もいました。さて、十月二十八、二十九、三十日の富戸三島神社例祭も
何とか終わって、残る行事は最後を飾る、十一月三日の仮装行列のみです。その明治節が来ました。
 朝から風も静かで、綺麗な青空です。祝賀祭の最後を飾るのに相応しい、良い日和に恵まれました。
山車を曳く若者は、まず三島神社に参拝した後で、各自が思い思いの仮装を凝らして、秋祭りと同じ
道順で山車(花車)を曳き出しました。山車(花車)の中では、笛、太鼓、鉦の音に軍歌も多く混ぜ
て、お祭り以上に盛り上がりました。約三十分で宇根の竜宮さんに着き、竜宮さんの前で四十人ほど
の若い衆が三列になって、まず戦勝を祈願して、産着岩の前で丸くなり、祝賀祭用として特別に配給
された御神酒を回し始めた時でした。二、三人の若者が宇根の沖を見てから、大きな騒ぎが始まりま
した。大根(オオネ)のすぐ沖から秋刀魚の群れが、富戸湾を目指して押し寄せてきたからです。大
 根(オオネ) の百メートル沖から、秋刀魚の群れが海一杯です。その秋刀魚は海面を紺色に染めて、
潮の流れに乗りながら、富戸湾を目指して寄せてきたのです。その秋刀魚は時々、大きな魚に襲われ
るのか、何千尾でしょうか、一度に海面に飛び出します。その秋刀魚の群れが、真昼の陽を浴びて飛
び出す姿は、ちょうど銀粉でも海面に流したような見事な光景でした。なお、沖合いに目を移すと、
秋刀魚の群れが描く濃紺が、海面に縞模様を措いて、波状攻撃の姿で富戸湾に寄せてきたのです。前
角方面からぼら納屋の沖も、秋刀魚の群れが続いているようです。この秋刀魚騒ぎに誘い出されて、
三、四名の古老さんまでも宇根に顔を出して、秋刀魚の暴れる姿を見て、渋い声色で「今まで見たこ
ともねえナブラ(群れ)だ。」と、すぐ前の秋刀魚達を目の前にして驚いたようです。そこで、大き
な問題が起きました。この見渡す海面に溢れる、秋刀魚の群れを目の前にして、漁業関係者、特に船

紀元二千六百年祭と秋刀魚大漁物語(三)

主達は、祝賀祭どころではありません。何故なら、富戸の村の稼ぎは海からです。特に秋から冬の秋
刀魚漁は、年間収入の半分以上を占めているからです。この海二卸の秋刀魚の群れを目の前にして、
船主と若い衆組の役員と話し合いが始まりました。                      
 船主仲間は「祝賀祭を止めて、すぐに秋刀魚漁に出るのだ。」その反対に若者は「国を挙げてのお
祭りだ、祝賀祭を続行すべきだ。」と意見が合いません。この両者の話し合いの最中でも、秋刀魚の
群れは一段と多くなつたようです。沖の秋刀魚を目の前に手で指しながら、厳しい話し合いが続いて
ぉります。晩秋で日暮れが早い、どのような話になったのか、私達一年生には皆目解りません。だが
話し合いは、かなり難航していることは確かです。そこへ、漁師総代の東町の円吉丸さんが駆け込ん
できました。すぐに若い衆組の役員と話し合いが始まったのだが、またも話し合いが難航している様
子です。察するところ、話し合いは簡単には決着しそうもありません。その時です、漁業組合長の日
吉岩太郎さん(沖東)が息を切って、宇根まで駆けつけて早速、若い衆組との話し合いの中に入りま
 した。十分ほど話し合って纏まりました。「漁に明日の約束はない。」との結論で、すぐに山車を片付
けて、秋刀魚漁に出ることになったのです。                         
 この年(昭和十五年)十一月三日の晩から始まった秋刀魚漁は、海も珍しく穏やかな日が続いて、
毎夜大漁が続きました。そして年が明けても、秋刀魚漁は衰えることもなく続きま七た。本当に珍し
い年でした。それに、年が明けた昭和十六竺月末までも、大漁の騒ぎが続いたのです。だが一月に 
なると、秋刀魚の姿が急に細くなって、刺し網では編み目から擦り抜けて、思うほどの漁獲量ができ
なくなりました。でも、日暮れと同時に船の灯りを求めて、船下に集まる秋刀魚の数は衰えません。
この秋刀魚の姿を見て、払町の辰丸さんの兄弟は、この細くなった秋刀魚を獲るのに、アジやムロを
獲る棒受網漁を考え付いたそうです。大発案だと思います。                  
 先日、郷戸町の志郎丸さんに、当時の秋刀魚漁の話を聞きました。志郎丸さんは辰丸の男四人兄弟
の三番目で、秋刀魚棒受網漁を発案した兄弟でした。話を聞くと初めは上手くできず、何回も失敗し
たそうです。でも、辰丸兄弟は研究に研究を重ねて、遂に秋刀魚の棒受網漁を成功させたそうです。
 現在(平成時代) は、お盆の前に東京築地に秋刀魚が並びますが、その秋刀魚は北海道地方で獲れた
秋刀魚でしょう。棒受網漁を知らない以前は、北の海は秋刀魚は獲れなかったと思います。富戸の漁
師の考案のお陰で、北の海でも大漁に獲れるようになったのでしょう。この秋刀魚棒受網漁は、電気
 屋さんの媒介で全国に広がったと言われております。電気屋さんは、発電機(集魚灯) の売り込みを
 伊豆半島(富戸港) から、千葉県の房総方面の漁港を北上して、北海道方面の漁場までに売り込んだ
との噂でした。また話を富戸の海に戻します。                        
 元々秋刀魚という魚は強い灯りに遭うと、真面目に漁船の灯りの下へ集まります。良ければ三回か
四回の網作業で満船にもなります。今までの刺し網では、一本ずつ手で網から外した漁法と違って、
漁師の身体が楽です。簡単に話すと、秋刀魚が灯りに集まるまで、タバコでも吸っていての休憩時間
です。時々海中を覗いて、秋刀魚が船の下に集まると、網を入れて獲ります。二時間か三時間か、四
回か五回の作業で満船します。また、刺し網と違って魚体も傷みません。富戸の漁師の金メダルでし

紀元二千六百年祭と秋刀魚大漁物語(四)

よう。この漁法を考案した富戸払町の辰造丸さんは、秋刀魚棒受網漁で毎晩大漁が続いて、笑いが止
まらないほどの稼ぎをしたそうです。                            
 さて、強い灯りさえあれば簡単に獲れるこの漁法は、発電機のお陰でした。それまでは「カーバイ
ド」の灯りか石油ランプで、手元が少し明るく見える程度でした。電気屋さんの勧めで、船の推進用
の焼き玉エンジンに、発電機を装着したとの話です。乗組員達も驚きました。スイッチを捻ると、海
に浮かんだ船に電灯が点いたからです。しかも、昼を欺くような灯りの下で、秋刀魚漁ができるので
すから、夢のような大きな驚きだったでしょう。秋刀魚という魚は強い灯りに出道うと、何万、何十
万尾が船の灯りに集まります。その秋刀魚は三十分はど過ぎると、青白い塊になって船の下から離れ
ません。獲れた秋刀魚を荷揚げに入港して灯りを消すと、それまで船の下で遊んでいた秋刀魚達は、
突然の闇に驚いてか、大きな音と一緒に浜辺に向かって、我先に飛び上がります。あっという聞に、
浜は秋刀魚で真っ白になります。浜に飛び1がって誰にも拾える秋刀魚の話が方々に広がって、隣村
からも日暮れになると、背負い枠やリヤカーを引いて、秋刀魚拾いに集まります。五キロ、六キロ離
 れた農家からも、馬や牛車に麻袋やカマスを付けて秋刀魚拾いに来ました。秋刀魚拾いの面白い話が、
海のない村の人達にまでも話が広がりました。陸で働く人達が、パチパチと生きた秋刀魚を手掴みで
欲しいはど拾える面白さも手伝って、農家の人達は馬力や牛車で、家族で富戸の浜まで秋刀魚拾いに
来る人も多かったようです。この年は秋から冬を挟んで、翌年二月までも秋刀魚拾いが続きました。
本当に珍しい年でした。日暮れになると、馬車や牛車の轍の音と、背負い枠姿の人達の話し声と、そ
れにリヤカーの荷台に子供まで乗せて、秋刀魚拾いに集まる人達の大きな話し声が、寒い冬の浜道を
賑やかにしてくれました。稼ぎよりも、秋刀魚拾いの面白さが手伝ったことと思います。昭和十五年
の秋から、十六年の春先までも続いた秋刀魚拾いの話です。                  
 六十年余りも過ぎた今でも、秋が深くなると紀元二千六百年祭と秋刀魚の大漁と秋刀魚拾いの話が、
険の奥に鮮明に浮かび上がります。この秋刀魚漁の騒ぎが過ぎて、昭和十六年の春には、日本の国内
に大きな変化が現れ始めたのです。ガソリンが俄に不足しました。軍事用にしかガソリンは使えませ
 ん。民間の自動車は、薪や炭を燃やして走りました。「ガソリンの一滴は、血の一滴だ。」 の標語が
町々に氾濫しました。それから、大変窮屈な時節に傾いていくようです。現在では笑い話ですが、バ
スやトラック、ハイヤーは薪を燃して走りました。富戸の停留所(竹安ざん)から梅の木平までは駆
け足程度で、なお、急な坂では自動車が動かなくて、若者はバスから降りてバスを押しました。食べ
物も極度に不足しました。それに輪を掛けて、どこの工場も材料が不足して生産ができません。米も
衣類も生活用品までも、御上(政府)が発行する切手でしか手に入りません。何もかも不足、不足の
厳しい時代に突入したのです。それに日が暮れると、灯火管制で村中が暗くなってしまいます。闇の
坂段に吸い込まれていくような、本当に寂しい暗い世界に入っていくようでした。どの若者も楽しい
歌も、微笑みも消えました。私も昭和十九年春先に、海軍へ志願しました。今あの時代を思うと、戦
火の中を良く無事で家に帰れたものだと、遠い思い出が晩秋になるたびに頭の隅に蘇ります。私の軍
隊生活の詳しい話は「正徳海軍日記」に書いてあります。   (青春時代の一項を書きました。)