富戸 若い衆組(一)

昭和十五年の二月五日は、「若い衆組」という団体に加入した忘れることのできない日です。当時
の対島村(富戸、八幡野、池、赤沢)は、一ケ月遅れの二月正月を行いました。そして富戸の村に住
む十五歳の男子は、二月五日に「若い衆組」という極めて強固な捉で囲まれた、若い男達の仲間(団
体)に加入することが徳川時代からの決まりでした。この行事が「名聞き」と言って、富戸の村に春
を告げるめでたい行事で、この若い衆組の名聞き行事を境に、富戸区の総会、漁協組合の総会、ボラ
網の津元の選出、その他各町内の町頭さんや、その他の団体の役員とか、世話人の発表をするのが慣
ゎしでした。このように富戸の正月の中で、新しい春を運ぶ行事が、若い衆組の「なびらき」です。
私は十五歳で、富戸小学校の高等科二年生で三月末に卒業の予定です。家族は両親と姉さん四人、妹
大で、私は姉達に囲まれて、ノンビリと日々を過ごしていましたDこれからの話は、室戸の村に住
む若い男達の厳しい物語です。学校の先生方も今日の加入式を承知してくれて、午後二時半に帰して
くれました。若い衆組からの通知で、四時過ぎに親元(身元引受人)と若い衆会館へ出向いてほしい
との通知が五日ほど前に届きました。                            
私はドキドキ落ち着きません。今晩加入する者は皆同じだろうと思います。苦から「若い衆組」の
名前を、富戸言葉で「ワケーシ」と呼んで、泣く子も黙る、威勢の良い団体でした。両親は私が若い
衆組に入るので、餅の新しい着物を縫ってくれました。母の縫ってくれた新しい着物を着て、ソワソ
ヮしながら時間を待ちました。私を連れていってくれる親元は、栄三丸の稲葉尚さんです。対島村の
役場(八幡野)に勤めていました。早引きをしてくれるそうです。さて今年、私と一緒に若い衆組に
入る新人は、十四名で全員が同級生です。私の父は隣組の茂郷君の親元でした。案内状に書いてある
時間が来たので、親元さんの後に付いて会館に出向きました。どの親元さんも、袴こそ着けないが盛
装です。私はお神酒一本を大事に抱えて、親元さんに寄り添うようにして、玄関から二階に通されま
した。四、五名の役員さんの前で、親元は両手を突いて 「稲葉尚と言います。私の横にいる正徳の親
に頼まれました。今晩、若い衆阻に加入させてもらいたくお願いに上がりました。」 と深く頭を下げ
て申しました。受付の役員さんはニコニコ顔でした。だが、この笑顔がわずか数時間後に、恐ろしい
顔に変わるとは露程も思いませんでした。親元ざんと一緒に食事を頂いたあと、親元さんは私を残し
て帰ぅました。食事を頂いたあと、玄関の横で新加入の同級生達と集って、マゴマゴしていると、昨
年、若い衆組に入った一年先輩達が、強い言葉で片付けや水汲みなど指図します。会館前の特設流し
場の方を指して、二階で食事したお膳や食器を洗ったり、桶で水運びなどを強い口調で指図します。
私達は慣れない手付きだが一生懸命に働きました。昨日までは小学校で、兄貴のようなつもりで親し
く話し掛けていました。ところが驚きました。強い口調で私達新加入者を叱り付けます。この一年、
先輩達の態度の変化にも驚きました。                            
 さて、昨日は立春で暦では春です。だが伊豆の東海岸は、北風が強く吹く季節で、寒さの本番はこ
れからです。だが、私達は若い衆組に入るために気合いが入っているのか、寒いとは感じません。仮
設の洗い場で、慣れない手付きで一生懸命に働きました。食器の片付けも終わり、間もなく、加入式
(なびらき) が始まるでしょう。夜の九時を過ぎました。私達の食器の片付けが終わるのを見届けて、

富戸 若い衆組(二)

年若の役員さんが庭に出てきて、新加入者を手招きで集め、「今から二つのグループに分かれて『な
びらき』を呼び回れ。」との命令です。どのような事かよく飲み込めないで、マゴマゴしていると、
一年先輩(新二年生)が教えてくれました。「そこの火の見櫓を中心にして、上組と下組に分かれて、
大きな声で『名聞きだぞー』と村中を呼び回れ。」と教えてくれました。             
 若い衆組での最初の仕事は、大きな声で村の中を呼び回る作業でした。村の中の呼び回りが終わり
会館に戻ると、すでに大勢の若い衆が集まっていました。百五十人ほどでしょう。会館は先輩の若い
衆で一杯でした。夜の九時を四十分ほど過ぎています。                    
 いよいよ「なびらき」という、手荒い加入式が私達を待っております。加入式の話をする前に、富
 戸の「若い衆組」とはどのような団体だったか、私達が加入してから十二、三年程過ぎた昭和二十七、
八年には、私達クラスが最高年次でした。同級生の田畑茂郷君が大頭(頭領)で、会計(筆頭)は日
吉義道君、なお分団長(消防〉は石井明男君でした。私は古参の平役員で、案外自由に振る舞うこと
ができました。代々の大頭さんが、責任を持って預かっている書類箱(幅三十五センチ、縦は七十セ
ンチ、高さ二十五センチ)ほどで、檜の箱の中には重要書類が入っていました。その箱の中を茂郷君
と見ました。箱の中には古い書類が多く入っていました◇特に、上等の和紙で綴じた分厚い書類を、
茂郷君と二人で時々見ました。富戸の若い衆組の創設は、徳川時代の後期のようです。村の自衛と産
業(主に漁業)には、中心になって活躍した若い男の集団のようでした。特に幕末の混乱期と明治時
代の大戦争なども、村の中心団体だけに多くの苦労話も書いてありました。その他時代の出来事など
も、上手い筆字で綴ってありました。このように古い歴史を歩んだ「若い衆組」だったが、昭和二十
年の太平洋戦争敗戦と同時に強く吹き込んだ、民主主義という未だ経験したことのない暖風を正面か
ら受けて、終戦からわずか九年後の昭和二十九年の正月の総会で、解散することになりました。それ
から数日後、富戸区の合同委員会の結果、若い衆組の全財産を富戸区で管理するという、悲しい運命
に変わってしまいました。若い衆絶と聞けば、泣く子も黙る威勢の良い団体だったが、わずか数時間
の総会で、消えてしまいました。                              
 私は昭和十五年にこの団体に世話になり、解散の前日まで勤めました。思えば、姉妹に囲まれ軟弱
に育った私だったが、若い衆組に入り男社会の生き方を、存分に詰め込んでくれた団体でした。私は
 若い衆組に入ってから四年後に、横須賀海兵団に入団しました。海軍では若い衆組の厳しかった躾が、
役に立った面も多くありました。また話を若い衆組会館内の「名聞き」 の場に移そうと思います。
役員さんは一番奥の間に控えています。真ん中の二個の机が下向きです。大頭、会計、先任分団長
の三役と、先任役員一名が下向きに構えて、左右の両脇に四個の机を二個ずつ縦に並べて、役員六名
 が向き合い座っております。奥の黒板には、上手い字で式次第を書いてあります。まず、筆頭(会計)
さんの開会の挨拶から始まりました。次に、消防の分団長さんが大きな声で、私達新加入者十四名の
名前を呼び出します。返事が小さいと何回も大きな声で呼び、気合いを入れます。全員の呼び出しが
終わって、最高責任者、大頭(みせの田畑忽次)さんが厳しい顔で「皆さん聞いて下さい。この前に
いる子供達が、先程親元を通して、若い衆組の仲間に入りたいと申し込みがありました。どのように

富戸 若い衆組(三)

致しますか。」と大頭さんが会場を見渡しながら、喉を抑えるような声を出して話し始めました。だ
が話の終わらない内に、囲炉裏端の元老さんから始まり、全部の若者が総掛かりで、私達の悪かった
行動を針小棒大に申し立てます。それに加え、元老格の中には「今までこの子供と道で会っても、ナ
ライ(北風)より悪い、挨拶のあの字も言われた覚えがない、また世間の話を聞くと、家でも親の手
伝いもしない悪い子供ばかりだ。」と口を突き出して、一時間あまりも申し立てております。その中
に、囲炉裏端の元老さん二名が立ち上がって、騒いでいる若衆達を両手で制しながら、穏やかな、ゆ
っくりした口調で、役員席に向かって申しました。「大頭さんを始め、役員の皆さんに聞いてもらい
たい。先程から大勢の年配者の話を聞いて驚きました。今まで、このような悪い子供達を見たことも、
聞いたこともありません。このような悪い子供達を加入させるようなら、誉れの高い、伝統ある若い
衆組の品位が落ちます。このような悪い子供達が入ると言うなら、僕達元老はこの団体と別れるつも
りです。長年親しんだ団体だが、早速お暇を頂きます。」との話です。この元老さんの言葉が未だ終
わらない内でした。堰を切ったかのように、騒ぎが大きくなりました。そして会場のあちらこちらで、
私達加入者を強く罵る言葉が飛び交い始め、収拾が付かないはどの騒ぎです。私達新人はこの荒々し
く騒ぐ若者達に囲まれて、すでに三時間も正座をして、足の先は痺れて感覚はありません。苦しくて
少し身体が動くと、役員ざんが睨み付けます。この荒々しい状況が、何時まで続くのだろうかと全く
予想ができない状況でした。それに、囲炉裏で燃す煙は否応なしに私達を包み、目と.鼻に強く弛み込
んで涙が出ます。想像した以上恐ろしい団体に、願いに来たものだと心の奥で思いながら、隣の友達
を横目でそっと見ると、私と同じように歯を食いしばっている様子です。その時です、突然大頭さん
が立ち上がって、窓のガラスが破けそうな大きな声で 「大勢の皆さんからの話を聞くと、このような
悪い子供達をこの団体に入れると、長年団体に尽くしてくれた先輩や、長老さんまでもこの団体から
去るとの話しでは誠に困る。若い衆組という村人からの信頼の厚い、この団体の運営が成り立たない。
従ってお前達をこの組に、入れる訳には行かない。追い出せ、追い出せ。」 と大きな声で命令しまし
た。その命令の声が終わらない内に、中堅の若者が中心になって私達の背中を一斉に強く押しながら
「出て行け、出て行け。」 と押し捲ります。私は足が痺れて動かれません。転んだり立ったり、マゴマ
ゴしているのを見て、誰かが私の両脇を抱えて、土間まで連れて行ってくれました。その時点では、
有り難いと思った程度でしたが、幾日か過ぎてあの緊迫した場面を思い出して、大勢の中に優しい人
がいることを嬉しく思いました。私達は土間へ追い出され、手当たりに履物を抱え、裸足で外に逃げ
出しました。どの友達も裸足でした。息を弾ませながら、どこか適当な場所はなかろうかと、ウロウ
ロしていました。仕方なく火の見櫓の下へ全員が集まりました。寒さと恐ろしさで、小声すら出す気
力もありません。夜中の十二時は過ぎているでしょう。真夜中です。仲良しの茂郷君は→こんな目に
遭うとは思わなかった、家に帰ろう。」 と私を誘いました。その時です、二人のお父さんが、大きな
声で何やら話しながら、火の見櫓の下まで来て、不思議そうな顔付きで、暫くしてから私達に 「この
夜更けに何をしているのか。」と聞くので、会館から追い出された話をすると「ちてっど良かった、
俺達二人は用事があって遅くなったが、今から会館に行くところだ、お前達がどうしても若い衆組に

富戸 若い衆組(四)

入りたければ俺達と一緒に歩け、頼んでみる。」との話です。私達は渡りに船とばかりに、頭を大き
く下げて頼みました。この元老さんは、川端の伝太郎さんと岡町の小林卓夫さんでした。私達は二人
の元老さんの後を恐る恐る付いて、先程逃げ出した土間の敷居を跨いで入ろうとした時です。「その
敷居を跨ぐな、帰れ、帰れ。」と今度は二年、三年前に入った若者までも、口を揃えて大きな声を出
して無理に追い返します。私達を連れて来た二人のお父さんが、騒いでいる若者達を両手で制しなが
ら「僕等の話を聞いてくれ、急な用事ができて遅くなって、火の見櫓の下まで来たら、この子供達と
出会いました。訳を聞いたら『どうしても若い衆組に入りたい。』との話のようです。何とか会館の
中に入れてやって下さい。」と頼んでくれました。二人のお父さんの後に付いて、また土間の敷居を
跨ごうとした時です。今度は昨年入った二年生までも仲間に入って、大きな声で「帰れ、帰れ。」と
二人のお父さんの背中を押して、またも外へ追い出されました。私達は疲れて遠くへ逃げる気力もな
くて、会館前の石段の所で振るえていました。二人のお父さんは心配な顔付きで、私達を集めて「お
前達はここを動くな、今度は役員さんに僕等が直接頼んでみる。話が上手くできたら呼びに来る、そ
れまでここで待っていろ。」と言葉を残して、また会館へ入って行きました。三島神社の森から流れ
出す夜風は、身体を遠慮なく冷やします。夜の一時頃でしょう、霜が地面を覆い始める時間です。若
い衆組の決まりで、新加入者は勿論、小若者三年生、三年生)は、どんなに寒い時でも、どんなに
冷たい時でも、足袋、手袋、靴下、襟巻きは役員の許可がない限り、身に付けることはできません。
従って私達も今晩から素足です。足の先は痛く冷えますが、それより館内の話し合いが大事です。二
人のお父さんの話はどうなっているだろうか。既に二十分あまり過ぎたが、何の変化もありません。
話し合いは難航しているのでしょうか。私達は丸く輪になり身を寄せ合って、冷たい夜風から身を守
りながらも、会館の話し合いが、気になりました。それから十分ほど過ぎた頃、ようやくお父さん二
人が会館から出てきました。「やっと話が付いた、もう一回子供の気持ちを試してみるとの話し合い
までに漕ぎ着けた。今度は会館へ入る時、できるだけ大きな声で『今晩はー』と大きく叫ぶような声
を出して、頭も身体も低くして入れ。」と教えてくれました。私達は言われたように、身体を低くし
て、何とか初めに座っていた中の間へ、辿るような姿で座ることができました。気のせいか役員さん
の顔が先程より、なお険しく見えました。でも私の考えでは、役員さんから二、三の注意事項を受け
る程度で終了するだろうと思いました。だがそのような甘い考えは、すぐに消えてしまいました。こ
れからが 「なびらき」 という行事の本番に入るのでした。                 
 私が「なびらき」という聞き慣れない言葉に、多くの時間を費やしたことを疑問に思うでしょうが、
富戸の正月行事の中でも最初に春を呼ぶ、めでたい富戸村の祝日でした。現在の成人式です。徳川時
代からの行事でした。富戸では十五歳の男子は、若い衆組に加入する決まりでした。このめでたい日
を境に、子供名前から大人の名前に変え、親戚や知人を集めて、息子の成人を祝う家も多かったと言
われています。親戚や知人はこの新成人を、事の外大きく祝ってくれたそうです。このように古くか
 ら伝わってきた「なびらき」行事は、富戸の村に春を呼び込む「春一番行事」 でした。そして、この
『名聞き』を境に、村中では一人前の男と認めてくれました。武家社会の元服です。父親の万作が私

 富戸 若い衆組(五)

に話してくれました。「俺は子供の頃の名前は『タァ一次』という名だったが、若い衆組に入る前に、
二年先に生まれたが、二年足らずで病死した兄の名をそのままにして、役場の戸籍簿も死んだ兄の名
前をそのままにした。従って、二十歳の徴兵検査も二年早く受けたので、二寸(約三センチ)届かず、
当時の言葉で『寸足らず』の不合格で、兵役を免れた。」とよく話しました。なお村の旧家では、長
男(跡継ぎ〉が若い衆組に入る時に、子供名前から、代々そこの家に伝わってきた名前に変えたそう
です。そして若い衆組の「名聞き」(加入式行事〉のめでたい日に、村人に公表したそうです。私は
「名聞き」という、聞き慣れない行事を長々と申し述べましたが、富戸の村に春を告げる、喜びの行
事だったことは確かでした。ではまた、緊張状態の続いている館内の場面に話を移します。    
 正面の長机に大頭さん、両脇に会計さんと消防の分団長(当時は警防団)と三役の方が前を向いて、
左右の両長机には、役員さんが三名ずつ控えております。わずかにホッとした事は、一般の若い衆が
私達を囲んでいないことです。一般の若い衆達が静かに座っております。そして、次に移る式次第の
時間を待っているようです。会場が先程より、少し静かな状況に変わっています。私達の誰もが思い
ました。間もなく夜が明けるので、この程度で終わるだろう、柱時計も夜中の二時半を過ぎました。
総会終了も間近いだろうと、ところが、そんな甘い考えは消えてしまいした。          
役員席の真ん中に座っている大頭さんは、座ったまま大きな声で「皆さん聞いて下さい。前にいる
子供達は態度が良くないので、二度も追い返しましたが、二人の元老ざんの熱意に絆されて、またこ
の前に座らせました。これから若い衆組の規約を読んで聞かせて、守れるようなら一時預かることに
しょうと思いますが、どうですか。」 と尋ねるような声で探りました。すると今度は、中堅の若い者
 達が立ち膝になって 「二人の元老さんにお尋ねします。」 と。私達十四名を先導して、何とか加入さ
れるように尽くしてくれている元老さんの二人が、役員席と一般の若衆の間に立って、上下を交互に
見ながら、会場全部に染み込むように重い静かな声で 「この子供達が、大頭さんが今読み上げた若い
衆組の規約に反する者が一人でも出たなら、僕達二人は長年世話になったこの団体から消え去る覚悟
です。」 と誠に悲壮な話になりました。この元老さんの真剣な話で一般の若者達も納得してくれると
思いました。ところがまたも中堅の若者七、八人が立ち上がって 「元老さんにお尋ねします。皆さん
の話を聞くと、近年にない悪い子供達のように思われます。」 と今度は反省を促します。役員席の真
 ん中で呪んでいる大東さんは、目を大きく開けてギロギロと睨みながら、分厚い規約簿 (台帳) を広
げ始めました。「これから、若い衆組の規約を読み聞かせる、聞き逃すな。もし嫌になったら途中で
も良い、ここから出て行け。」 と力強い声で前置きしてから、やっと規約簿を読み上げる段階に漕ぎ
着けました。そして分厚い和紙で綴った規約簿を広げて、ゆっくりと読み上げます。わざとゆっくり
読むのでしょうか、一項ずつ丁寧に読んでいます。                     
 物凄く時間が掛かりそうです。長く座っているので、足が痺れて感覚がありません。それに加えて、
囲炉裏を燃やす煙が目と鼻に弛みます。とんでもない団体にお願いに来たものだと、つくづく思いま
した。隣に座っている友達も足が痛そうです。規約簿を読んでいる大東さんの大きカ声も、上の空で
  しか聞こえません。お願いは、規約簿の読み上げが早く終わることでした。時々 「はい」 と上の空で

富戸 若い衆組(六)

も、大きな声で返事だけは確かにしました。でも規約簿の内容は良く解りません。約四十分ほど読ん
でから、大頭さんは私達を睨みながら大きな声で 「今読んで聞かせた規約は、長年若い衆組を支えて
きた約束事だ。この規約から外れた者は、この団体から追い出されると思え。今回は一時預かって見
ることにしたが、規約に反する者には親元を呼んで即座に帰す。」 との約束で、大君組の加入式が何
とか終わりました。時計は午前三時を過ぎました。これで加入式が終わったと思い、ホッとしたのも
 束の間でした。「今から宿若組の総会を行うから、宿若組はこの場に残れ。」 と宿若組の床柱(頭領)
の田畑茂さんの命令です。さて、これから始まる宿若総会こそが、私達新加入者の甘い心を一変させ
た、身も心も凍る宿若総会でした。                             
 さて、宿若総会の前に 「宿若組」 とは、どのような団体であったか大まかに話します。   
まず年齢の構成は十五歳の一年生から二十四歳までで、全員が青年詰め所に宿泊の義務があります。
その内の一、二、三年生を 「小若い衆」 と呼んで、辛い仕事や嫌な作業を率先して受け持ちます。
では、小若い衆の務めを二、三話してみようと思います。                    
こ若い衆組に入って三年間は、十九歳の正月が過ぎるまでは、足袋、手袋は許可なくしては使用  
してはならない。                                     
(二)一年生は夕食後すぐ会館に来て、掃除や片付けをすること。

(三)道で会う先輩や村人、先輩には大きな声で挨拶をすること。

(四)毎日の心得は、一年上は兄と思え、二年上は親と思え。  

(五)漁の行き帰りの道では、長靴や山早履を履いてはいけない。

 小若者はこの項目を必ず実行すること。そして、どの作業場でも一番骨の折れる仕事に取り掛かれ。
またその他、宿若に与えられた務めに、夜警の務めがあります。その夜警業務は、十一月一日の晩か
ら三月の十日頃まで、雨の降らない限り毎晩です。夜の十一時から出発して、約一時間ほど掛かりま
した。昭和十六、七年の頃は、一年生から三年生まで四班に分かれて、班長一名、副班長一名、その
他五、六名で威勢良く回りました。なお、西風の強い晩は、二度も三度も回りました。当時は十二時
が過ぎると、どこの家でも眠りに入って静かでした。そして、夜警太鼓の音が、道端の家のガラス窓
を響かせ、山の木などにも小さくこだましまして通り過ぎました。私は幼い (七、八歳) の頃、
夜警太鼓の音が小さく遠くに聞こえ始めて、だんだん近く大きな卓日になって、家の側の道を通る
時は、窓ガラスを響かせて通り過ぎます。そしてまた、小さな音になりながら消えてしまいます。
子供の頃、夜警太鼓の育と母親との添い寝が、今も懐かしく思い出されます。          
富戸の夜中の風物詩だったでしょう。                           
 さてこの辺で 「宿若組」 とはどのような団体だったか、掻い摘んで話します。富戸若い衆組の
中心になって、活発に動き回る存在です。特に、漁業には果敢に動き回るので、若い鮒に例えて 
「ワラサ」と言われ、その言葉通りの行動が宿若の姿でした。                 
 では、これから始まる宿若総会の、ありのままを書く心算でぺンを持ちましたが、何度もためらい
ました。内容が非常に強烈なので、どこまで深く話して良いものか迷いました。だが、私は感情を自

富戸 若い衆組(七)

紙にして、宿若総会のありのままを話そうと思います。その前に、私が若い衆組に入ってから四、五
年過ぎた頃、友達同士で時々若い衆組の話をしました。「宿若組の規律と活発な行動が、大君組の屋
台骨を支えていたのだろう。」との結論でした。そして親子関係のような姿で構成された大君組は、
村の産業は勿論、保安関係にも良く務めました。そして村の政治にも、少なからず影響を与えたよう
です。                                          
 また、話を活発な宿若総会の場面に移すことにします。私は何十年を過ぎた今でも、宿若総会の模
様が鮮明に蘇ります。私は五人の姉妹に囲まれて、ノンビリしていました。世間の話では、宿若組の
厳しい姿を良く耳にはしたが、このようなきつい団体とは思いませんでした。ノンビリした私は、た
だ、ただ不安の心で一杯でした。さて自分のことばかりを書きましたが、本題の宿若総会の場面に話
を移します。床柱(頭領)さんを真ん中に、両脇は会計さん、先任役員さんが座って、次の机には班
長、副班長が険しい目付きで、新加入の私達と一般を見渡しています。相変わらず囲炉裏端で燃やす
煙が目に氾みます。それに、夜明け前の冷たい凪が窓ガラスの隙間から吹き込みます。不安と寒さは
募るばかりです。                                     
 まず会計さんの開会の挨拶から、宿若総会が始まりました。私達新加入十四名は、正面の役員ざん
の前へ行儀良く並び、かしこまりました。今回は役員席の長机の角度が、大君組の簡とは違います。
コの字を縦にをした、二個ずつ四個の机です。宿若の役員席の長机の角度が、富士山の裾のように広
くなっています。この角度だと、役員さん達の目が隈なく見渡すことができます。なお、黒板には上
  手い字で、式次第を書いてあります。(一)床柱挨拶、(二)会計報告、(三)議事、(四)新加入者紹
 介、(五)賞罰、(六)解散の傾でした。このようにして、私達新加入者の紹介が始まってから、床柱
 の田畑さんは声は大きいが、穏やかでゆっくりとした話し方で 「皆さん、この前にいる十四名の子供
 達のことでお計らいします。」 と始まりました。そして大君組の加入式と同じように、二名の年長者
が責任を負うとの約束で、私達を一時預かってみるとの話に決まりました。宿若総会の式次第も順調
  に進みました。いよいよ、問題の (五) の賞罰の項に入りました。会場は至って静かです。まず床柱
 さんが、強い言葉で 「賞罰に入りますが、役員席からは残念ながら賞に値する者は浮かばない。皆さ
  んの中で賞に値する人がいたら発言をお願いします。」 と尋ねました。暫く時間を置いてから 「賞が
  なければ、次の罰に移ります。」 いよいよ身も心も凍る、宿若組の制裁(八分) が始まりました。名
前を呼ばれた者は、役員席次の間、正面に呼び出されて、額を畳に擦り付けます。一際顔を上げるこ
 とは許されません。床柱さんからの箇条(悪かった点) を待ちます。返答は絶対に許しません。罪状
  の重いものには 「八分」 という罰を与えます。私は八分 (制裁) の場面を書くことは避けます。
何故なら若い衆組の品位に関わるように思われるからです。                 
 私達が想像した以上に厳しさに溢れた、宿若総会も終わりました。再び、私達新加入者が役員席の
    前へ呼び出されました。床柱さんが強い言小栗で 「お前達が今見たとおり、悪い者には罰を与える。そ 
    して、品行の良い者には賞と言って、大勢の前で褒められるのだ。賞の者が多く出るLせっに心掛けよ。」 
と言葉を残して、恐ろしかった宿若総会も終わりました。                   

富戸 若い衆組(八)

 朝日はすでに水平線から離れて、淡い紅色が会館の束側のガラスに映り始めました。昨日の夕方か
ら時計では、わずか十三時間でしたが、長い、恐ろしい夜でした。そして、きつい団体へ投げ込まれ
たものだと思いました。だが、深く考える余裕はありません。何故なら明七日は、対島村(富戸、八
 幡野、池、赤沢) の警防団(現在の消防団) の出初め式が、富戸小学校校庭(現在のコミセン) 
 で行われるのです。警防団の規律と意気込みを発揮する祭典です。                
 明日行われる式に使う器具、用具の点検、整備を小若い衆が命ぜられました。「小若い衆」とは、
一、二、三年生です。でも三年生は、おおむね監督の立場でした。威張っています。私達一年生は、
下働きで大変です。当時の対島村の出初め式は、富戸、八幡野、池の三会場を順番に回って、盛大に
行われました。式が終わって、午後二時頃から慰労会が始まります。今年の出初め式の会場が富戸小
学校なので、富戸の若い衆組会館の二階が慰労会場でした。慰労会の支度と接待は、女子青年団が協
力してくれました。一年生の私達は、慰労会には無縁です。二階の宴会を横目で見ながら、出初め式
に使った消防道具の後始末です。その後、始末の指導と監督は二年生(昨年の一年生)達です。その
二年生の威張る態度を見て思いました。早く来年になって、新一年生を監督する立場になりたいもの
だ。私だけでなく、私達同級生全員が強く思ったでしょう。                  
 私と、茂郷君、照夫君、繁次君の四人は、伊東の公民学校へ通っていたので、会館の宿泊は免除さ
れました。毎晩会館の務めをした同級生とは少し楽な点がありました。六人姉弟の下から二番目が男
の私です。長女は学校の教員をお婿さんに迎えて、大仁小学校に勤めておりました。父親は、一人男
 の私を伊東の公民学校(後で青年学校) へ通わせて、少しでも教育の場を人並みにしようと思ったで
しょう。だが学年末の通信簿を見た父親は、内容の悪いのに驚き、一年限りで伊東の青年学校を退学
する羽目になり、そして三日後に、日吉丸の定置網で働くことになりました。