太平洋戦争に突入(一)

日本国は世界の国々に、日本国の国威を示す行事を計画しました。その行事が「紀元二千六百年祭」
という大祭典でした。日本国民は勿論、満州国民までも、無理に紀元二千六百年祭に協力させました。
どのような計算でしょうか、昭和十五年は、日本が誕生してから二千六百年目だと歴史を変えて、帝
都(東京)を中心に全国津々浦々まで、派手に祭りや特別な催事を強行的に実行させました。私は幻
の祝賀祭年に、若い衆阻の一年生でした。                          
 この紀元二千六百年祭が終わって間もなく、昭和十六年十二月八日未明、日本海軍機動部隊の真珠
湾の奇襲攻撃から始まった、太平洋戦争は超大国を相手にした戦争で、日本全国民は大きな悲劇に包
まれました。私達が毎晩寝起きしていた若い衆組会館も、日を追うごとに、寂しい悲しい姿に変わっ
ていきました。                                      
 私が見て感じた会館の移り変わり行く姿を、神仏に祈りながら紙面に映そうと思いますが、切なさ
が先になってしまいます。ペンがどれほどに、私の気持ちを運んでくれますか。私は心を引き締めて
話そうと思いますが、上手く表現できますか疑問です。                    
 数年前に始まった支那事変でも、多くの若者が大陸の戦場に出て行き、戦死傷者も多く出ました。
役場から戦死の公報があると、名誉の戦死とは言うものの、村の一点に黒い穴ができたような悲しい
思いでした。宿若会館も笑顔のない口数もない、寂しい姿に変わっていくのでした。私と定置網で働
いた一年年下の石井幸夫君は、十七歳で陸軍へ志願しました。元気な姿で皆に送られて出征しました。
その時、石井君はニコニコ顔で私に「万栄君が徴兵検査で軍隊に入る頃は、俺は伍長の肩章を付けて
威張っているだろう。」と勇んで村を出て行きました。今もその時の面影が、瞼に浮かびます。胸を
張って出て行った石井君も、南方の戦線で散ったそうです。日本政府は戦争の状況が思わしくないの
に、報道機関を動員して、いかにも勝ち戦のように報道しました。なお、食糧増産のため、漁農村で
働いている少年達にまでにも、青色礼状という軍需工場からの呼び出し礼状が、頻繁に配達されるよ
ぅになりました。宿若会館は夜ごとに、寝床が少なくなつていきました。会館に来ても、若者独特な
笑い声や、楽しい話し声は聞かれません。                          
 四年前の紀元二千六百年祭の派手な催しは「虹」でした。三、四年前まで賑やかだった宿若会館は、
日を追うごとに寂しい雲に覆われていきました。その寂しさに輪を掛けて太陽が西山に登ると、村中
は灯火管制です。家々の灯りは外には漏れません。毎晩、灯火管制が続きました。。山も海も街も、
高が全くの闇です。わずかの慰めは、月夜の晩でした。細い月が少しずつ大きくなって、満月の前
 後には、大島の東側から金色の光が海面を渡って、村の屋根や窓、細い道まで明るくしてくれました。
 特に、若い衆組会館の二階の窓から見る月はとても綺麗でした。海面から離れる月の姿は見事でした。
特に満月を挟んで、前後遍間の月のでの姿を眺めると、しばらくは苦しい世の中を忘れるほどの気
分になりました。そして心の中で、月の歌でも唄いたい気分になるのでした。でも綺麗だった月の姿
も、少しずつ遅く細くなっていく、月の姿を惜しむのでした。灯火管制が日本中の人の心を、どれほ
どに暗くしたことか、計り知れないほどだったでしょう。さて宿若会館には、急速に変化が始まりま
した。昨晩枕を並べて、前途を楽しく語り合った墓や同僚が、御上からの礼状が届くと、戦士の姿

太平洋戦争に突入(二)

で会館から消えます。このような寂しい話は、子供の頃読んだ西洋童話の、悪魔物語の一節の悲しい
場面を思い出されました。物語は深夜寝静まった頃、どこから入って来たのか、指の爪を長く伸ばし
た老婆に扮した悪魔が、無心に眠っている子供の枕辺に白い羽根を置いて、子供をどこかへ連れ去る
悲しい物語の場面です。そのような童話を思い出されました。                 
 御上(軍部)からの召集令状が来ると、寝床と若者は会館から消えます。会館の一隅に黒い穴が空
いた感じと、寂しさが残りました。どの若者も、国家存亡の時期と悟っております。笑顔を表面にし
ていきました。私より一つ年上で郷戸町の日吉千秋さんは、三島神社の秋祭りの五目前に、軍隊へ入
る召集令状が届きました。楽しみにしていた秋祭りはできません。会館の二階の窓で、海から上げる
月を見ながら、祭り嚇子を横笛に託して、心静かに涙を浮かべ、何回も繰り返し吹いておりました。
その姿と笛の音が、今も私の頭の中に浮かびます。その日吉さんは軍隊に入ってから五ケ月後に、中
支方面の戦いで散ったそうです。帰って来ません。                      
 三島神社の森に囲まれ、大きな石垣の上に建てた若い衆組会館は、四、五年前までの活発な、元気
良く跳ね回る若者の姿は見受けられません。一、二年生の小若者と、身体に訳あって軍隊に行けない
  中若の方が、時々見回りに来る程度です。あの北風(ナライ) の吹き捲る荒海も恐れず、漁船(ふね)
を操り、大漁に微笑んだ若者の姿は見受けられません。そしてこの私にも、昭和十九年二月に、横須
 賀海兵団より召集令状が届きました。花の十九歳です。平和な時代(とき) なら最高に楽しい年代で
 す。秋祭りを目の前の出征でした。約四年間多くの思い出を与えてくれた、宿若会館に別れを告げて、
両親の側へ寝床を移し、六日の夜を過ごし、横須賀に出征しました。七十七歳の今でも、遠く過ぎた
青春時代が鮮明に蘇ります。遠い懐かしい話です。